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2012年 05月 15日
家にむかう谷戸の途中の古い木賃アパートが、ついに取り壊された。私が子どものころからあって、もうずいぶんと長い間空家になっていた様子だった。足場が立ち、重機が入り、朝と夜だけ前を通ると、コマドリ写真のように、少しずつ様子が変わり、ついに更地になった。
両サイドを家に、奥を斜面に囲まれて、かなり広い空間が、ぽっかりと出現した。文字通り更地。黒々とした地面がきれいにならされている。 それをみたときに、妙に、ホーリーな感じがした。神聖な感じ。無垢で純な感じ。掃き清める、という言葉がうまく沿うような。従前の建物が木賃アパートだったからというわけではない。その建物に別に違和感や不快感がなどなく、かといって具体的に自分とつながる出来事もない、ただ目になじんだ存在というだけだった。実際その更地を見たときには、つい昨日まで刻まれていた解体のプロセスはぷっつりと途切れ、全く新たに出現したものとして目に映った。 次になにが建つのか。その予感もないままに、空白の時間を宿した場所。更地には、そういったリセットの力がある。 ところで、津波被害を受けた場所では、すべてが流されて基礎だけが残った状態、というのが多くのメディアに載せられた。実際に私もこの目で見た。被災現場に近づけば、崩壊した建物や変形した車、ありとあらゆる瓦礫や根元から折れた電柱のむき出しになった鉄筋、そういう積みあがった立体的なもののボリュームに、まず圧倒される。しかしその次に、瓦礫がやや整理された場所で家々の基礎が見えたとき、まるで異なる思いに襲われた。家の基礎は、その間取りを語り、見ず知らずの人が、しかし生身の人たちが家族とここで暮らしていたことを直感させたためである。部屋と部屋と風呂場と玄関と。屋根も壁もあったときに、立ったり座ったり食べたり眠ったり笑ったりしていた、その有様を基礎は語る。 建築雑誌の4月号は「残されしもの、生かされしもの」という特集だったが、その中の対談で、中谷礼仁さんが、基礎をそのままのこして盛土してその上に新しい建物をつくれ、ということを言っていた。建物の外形は震災以前の住宅地図や航空写真などが記録となる。しかし間取りはわからない。基礎はその記録となるから、と。 復興が具体化していけば、被災地のほとんどが更地になるだろう。かつて家々があったところの更地。高台移転のために新たに切り開かれて作られる更地。それらの更地は、新しいまちの建設の本格的スタートとして、あるポジティブな存在となるのかもしれない。冒頭の谷戸に出現した更地が帯びていたような、ある前向きなベクトルを前提とした神聖さ。注連縄が似合う更地。 しかしその一方で、基礎とその痕跡まで消し去ってしまうことは、基礎が語った従前の暮らしのリセットでもある。微地形や地下水といった大地の機微を読み取ったデザインにおいては、人が築いた暮らしの地層もそのままそっと包み込んでいく、という発想が必要なのかもしれない。桜の大樹は根に骨を抱く。そんななまめかしく、おどろおどろしい時間と命の積層を、現代のからりと陽気なまちに取り戻すことも必要なのかもしれない。(Yoh) 2012年 04月 16日
4月9日に、目黒川のお花見クルーズ、というものに参加した。ツィッターで流れてきた情報に目がとまり、その場で申し込んだ。定期的、商業的なものではない。「東京静脈」をつくった野田真外さんという方の企画だった。
出発地点は天王洲ヤマツピア。地図を頼りに天王洲アイル駅から日がおちた道を歩きだす。天王洲アイルの駅自体が初めてで、大規模開発特有のすべてに明確な意図があるデザインの固い空気に身がこわばるのを感じながら、足早に進む。運河を渡る橋に差し掛かると、ふっと空気が変わり身の緊張がほぐれる。橋詰の小さな建物。水辺に面して大きくとられた開口からは、白いインテリアと人影がのぞく。そこがキャプテンズワーフ。目の前に桟橋。イルミネーション。橋詰からひきかえすように狭い通路をくぐって明るい部屋へ。三々五々人が集まってくる。グループもあれば、私のような一人参加者も。 7時30分に出発。台船のような船に折りたたみの椅子が並べられている。簡単な手すり。先端には桜の造花。寒さに備えて持参した防寒具はまったく必要がないほど暖かい。船長さんとスタッフの女性、主催者の野田さん、他に二十名弱ほどが乗り込んで出発。ゆらゆらと、するすると。 目黒川水門をくぐり、右手にターンして川に入る。切り立った護岸にそって倉庫のような臨海部にふさわしい建物が続く。若い桜が連なる。潮が高く、橋はすぐ頭上をかすめる。船に取り付けられた照明が、行く先をぼんやり照らしていく。ひときわ低い桁橋をくぐる。リベットと繊細なブラケットにその橋の時代を観察していると突然轟音が降ってくる。列車が通過したのだ。道路橋、歩道橋、鉄道橋、水管橋。いくつかの橋には、「ようこそ目黒川へ」の横断幕。大崎に近づくと両岸には高層ビルが聳えたつ。徐々に桜が豊かになってくる。ぼんぼりも連なり、人の姿も増える。船上と陸、橋の上の人々が手を振り合う。急に静かになり、水の音が響く。揺らめく水面には花びらと地上の明かりが融けている。官能が充ちる。 持参したお弁当を広げる気にもならず、ちびちびと缶ビールを飲みながら、時々ビデオをまわし、ひたすらほーぅっと流れていく眺めを呼吸する。正確な場所の同定もせず、くぐった橋の形も流し、ただ、なんとなく、ああ、あの辺だ、あのあたりに友人が住んでいる、あの設計は彼だったな、などと記憶の断片が浮かんで消えるにまかせる。 クライマックスの雅叙園近く。桜は、水面へ水面へと枝を伸ばし、花の固まりが、ぽんぽんと丸くはねる。まさに春爛漫。船上のざわめき。まちのざわめき。揺れる光。様々な音。 約1時間の行程は、あっという間のようでもあり、じっくりゆったりした時間であったようでもある。船をおりて真っ先に思ったこと。東京ってなんて有機的なんだろう。コンクリートの切り立った護岸に挟まれた目黒川は、とても人工的だけれど、そこを流れる水は、文字通り水であり、潮の満ち干も地形の高低も、温度も湿度も、自然のメカニズムの下に在る。満開に咲き誇るソメイヨシノは高々百年程度まえにつくりだされた園芸種であり、すべてが人為的に植えられたものながら、すくすくとのびて花をさかせるその営みは自然のサイクルにのったもの。沿道の建築は、アーバンデザインという意図のもとに作られた物もあれば、個別の事情が形になった物もあり、個々の意思の集積としての意図されない呼応がある。頭上を通過する車や電車は、それぞれが目的地にむかってパンクチュアルに移動している。その立体感。人工と自然と個と集合と一瞬と繰り返しと変遷と。どれもこれもほんのわずかずつ接点をもちながら、予定されない呼応の集積と蓄積。これが都市の有機的な生成なのだと体感した。東京はやはり、すごい。 そういったリゾームであり、三次元セミラティスのアーキテクチャとしての都市は、クルーズ、という体験モードによってよりいっそうヴィヴィッドになったのではないか。あの速度と流れるような移動の連続性。歩くより幾分早く、自転車のように交差点で止まることなく。いささか浮遊した視線が、風とにおいと揺れによってバーチャルに陥らず、身体感覚としての移動のリアリティを実感させてくれる。水上の移動体験は、構図の新鮮さ以上に、都市認識を深めるポテンシャルをもっている。 (動画はこちら) ところで「東京静脈」のDVDは押井守の「東京スキャナー」と同時に入手していた。今からもう十年前だろう。「東京スキャナー」のまなざしは、きわめてわかりやすい特徴をもっているので、折に触れて参照してきた。それに対して「東京静脈」の淡々と静かに日本橋川などを映し出すそのまなざしは、ニュートラルでとても確かで落ち着いていた。東京の水辺の大切さや歴史性を説くという、あちこちで聞くメッセージすら背後にすーっと引いている。見る者が自由になれる映像だとおもった。今回のクルーズ後に、演出家の野田さんから現在名古屋の中川運河を舞台に「名古屋静脈」の制作を進めておられるとの連絡が届いた。そのサポートが呼びかけられている。3月に名古屋で開催された中川運河の写真展および写真集もとても興味深かった。東京とはまた違った有機性を感じる場所だ。「名古屋静脈」の完成が待たれる。(Yoh) 2012年 04月 06日
20年ほど前職場だったところに用があったので、でかけていった。ちょうどお昼時だったから、どこか近くで食事を。あ、あの蕎麦屋に行こうかな。
それほどなじみというわけではないが、時々通っていた。しゃきしゃきとした年配のおかみさんが切り盛りしていて、その姿がいつもかっこいいなあ、と思っていたのだ。20年前にすでにおばあさんのようにみえたのだがら、今はもういないかもしれない。そんなことを思いつつ、店構えがまったく変わらない暖簾をくぐった。店内も変わらない。 いらっしゃいませー、と明るい声を発したのは、私よりもずっと若い女性だった。やっぱりなぁ、と思いつつ、蕎麦を註文する。 ほぼたいらげかけたころ、入ってきた人と、あれっと顔を見合わせた。その職場に今通うSさんではないか。昨年韓国の学会で知り合った若手の研究者さん。 「お久しぶり。ここはよく来るんですか?私はむかし時々来ていて、そのころいらしたおかみさんがかっこよくて。」などと話すと、「いや、今もいらっしゃいますよ。夜とかお店にでています」とのこと。 「そうかぁ、そうでしたか。」 短い雑談をして、私は先に店をでた。 見なれた、しかし何軒もの店が変わり、建物自体も建て替わっている通りを歩きながら、まちに暮らすってこういうことだよな、と思った。 さりげなく記憶に残っているものが、つづいたり、とぎれたり。偶然ばったり誰かに会ったり、おもわぬ話がつながったり。目的としないさまざまなことが、なんとなく出会って、はなれて。そういえば、あの「間にある都市」を書いたジーバーツが、まちで偶然誰かに会うとことが重要なのだと話していたっけ。コミュニティというような粘性の高いものではない。そういうのが、私の好きな都市って感じだな。(Yoh) 2012年 04月 04日
昨日4月3日、盛岡にある北日本機械さんの工場に行ってきた。2月24日についで2回目だ。霞橋の製作の様子を拝見するため。
霞橋とは、横浜の新山下運河にかかる32mの小さな橋。現在かかっている高度成長期の極めて簡単な橋の架け替え。そこに新たに出現するのは、116年前に作られたトラスである。りんどう橋に継ぐ、歴史的な部材の再生プロジェクト。今度も運とタイミングと人々に恵まれて、スクラップになるところだった鉄の橋が、第3の人生を歩むことになった。 日本鉄道土浦線(現常磐線)の隅田川橋梁として1896年に架設されたプラットトラスが、1929年に鶴見操車場をまたぐ江ヶ崎跨線橋に転用される。横須賀線の新川崎駅の脇に広がっていた鶴見操車場跡地の開発が進むなかで、撤去架け替えが決定。それを報じた新聞記事がりんどう橋を一緒にやった木下さんから私の手元に届いたのが、2009年の6月。記事の末尾に、江ヶ崎跨線橋は地域になじんでいた橋でもあり、何とか保存活用できればと思う、という横浜市橋梁課長の松尾さんのコメントが記されていた。そこで、こんな事例もありますと、りんどう橋の資料をお送りした。それからとんとん、ばたばた、あれこれ、いろいろあって、江ヶ崎跨線橋のトラス部材を再生した霞橋が誕生することになった。 トラスの長さを半分に縮めること。部材を切断して解体したため、再生には新たな継ぎ手がたくさん必要になったこと。腐食が進み新規部材をかなり足さなければならなかったこと。転用というよりも部分的再利用であり、歴史性を重んじる方々からは批判の声も聞こえてきた。しかし、これは、歴史性の継承とか、オーセンティシティとか、そういった文脈での話というよりも、ものつくりの気概の問題であり、人への敬意の問題である。 設計の経緯などは、今後順次、例えば今年の土木史研究発表会でオリコンさんが発表してくださる。ひとまずここで伝えたいのは、盛岡の工場で見て触って感じたことだ。 例えばこのリベット。おみやげにいただいてきた。 ![]() オリジナルのトラスは、弦材ひとつひとつも部材を組み合わせリベットで接合して作られている。板材にL型鋼をとめて、という具合に。だからものすごい数のリベットが使われている。そうした部材が百年の間に磨り減って、リベットの頭もまるでとけかかったかのようになっているものもある。その状態を一つ一つ確かめて、傷んだリベットは引き抜いて新しいボルトに換える。引き抜かれたリベットがこれだ。小さいけれどずしりと重い。これをひとつひとつ打ち込む作業。そしてまた引きぬき補修する作業。L型鋼の一部が損傷している部分に継ぎ板をあてて補修する。その板のあて方、ボルトの締め方をこまごまと相談する。 ![]() ![]() 何枚にも重なった板の隙間の補修。図面上では寸法が決まっても、実物として組み立てられ荷重がかかったときの変形のコントロール。錆をブラストして落とすにも、錆止めの金属溶射や塗装にも、複雑で凹凸の多い形は無数の影を孕み、そこへの吹き付けをどうするか。そういった文字通り、実物との対話の繰り返しとして橋が作られていく。オリジナルの部材の肌はざらざらである。風雪に晒された年月がそこに刻まれる。この部分のこの加工は、きっとこういう手順で行われたのだろう。百年前のひとが同じようにこの部材を前に四苦八苦した過程が刻まれる。途中の転用、維持補修の手の跡。放置されたことで進んだ錆。イギリスの工場で刻まれた刻印も錆をおとしたら見えてきた。異国から船で運ばれてきた様子を想像する。 現物の部材に触れる。その重みと手触りに、要約できない116年という時が刻まれている。それに対するリスペクトが、このリスクも孕み手間も暇も面倒もかかる仕事を牽引した。 仮組みされた立派な姿を見上げ、ざらざらな部材ひとつひとつをぽんぽんと手でたたき、よかったね、と声をかけた。(Yoh) ![]() 2012年 02月 23日
富田克也監督の映画「サウダーヂ」が、ナント三大陸映画祭でグランプリを受賞した。アジアの映画に与えられる賞である。
「サウダーヂ」が10月29日から遂に上映されるとの報を新聞で知り、滋生さんと一緒に渋谷のユーロスペースに見に行ったのが2011年10月31日。それ以降ツィッターで空族が伝える公式情報と様々な人の「サウダーヂ」評のリツィートを眺める。そして上記受賞の速報を得る。 「サウダーヂ」は、富田監督の前作「国道20号線」を2010年6月に吉祥寺に見に行った際に、予告編というか、その一部の映像が紹介され、それ以来、いつ完成するだろうかと心待ちにしていた映画だ。その理由は、「『国道20号線』を見てきました」(2010年6月10日)の文書を読んでいただきたい。 さて、10月31日、道玄坂など歩くのは何年ぶりだろうかと思いながら、昼日中でも猥雑な横丁にある小さな映画館ユーロスペースへ向かい、席数百ほどの会場がほぼ満席となった館で2時間47分の映画を見終わった瞬間、ぐーん、としたエネルギーの塊が内臓に響いたような感覚が体に残っているのを意識した。「国道20号線」のときも一緒に見に行った滋生さんと、「いやぁ、、」という感想にもならない感嘆の言葉を互いに発し、ともかく映画館をでて街にもどり、ひとまずカフェで一服した。 舞台は監督の出身地である甲府。土方と移民とヒップホップ、の映画である。自主製作。多くのエキストラや甲府市民と外国人、個性的な俳優とヒップホップグループStillichimiya、宮台真二も登場。映像はドキュメンタリーのようだがしっかりとしたストーリーとシナリオがある。それ故に、ドキュメンタリー以上にリアルである。見えないものを見せてくれた。地方都市の、日本の現実。こういう暮らしがあり、こういう世界があることを。地方都市の衰退、などと言葉で言っていることは、ここまで深い問題なのである。シャッター街、などと言葉でいっていることは、こんな世界のほんの一側面でしかないのである。人はこんなにも情けなく、どうしようもなく、しかし心と体をもって生きているのである。こんな風な世界を出現させたのは、特定の誰かのせいではなく、私たち全員のせいなのである。 感想を、といえば、こんな感じであろうか。 それより、いくつもの、うわぁっ、とおもったシーンがある。 ・・・と、ここまでを昨年11月に書いて、そのままになっていた。 その後、国内での評価も高まり、毎日映画コンクール優秀作品賞受賞のことなどが新聞に散見されたりする。年が明けて、名古屋の家の新聞に、名古屋シネマテークにて2月18日からサウダーヂ上映の記事をみつける。夫に、これ名古屋に来たから見に行けば、と勧める。後日映画館のスケジュールを見れば空族の特集だった。これはチャンスと、初日の初回の「雲の上」を一人で見に出かけた。 8ミリで撮ったというぼやけた絵。聞き取りにくい音。ストーリーはかなり幻想的で内面的なものだ。学生時代にみた寺山修司の映画を思い出す。長い。3時間近くある。山に囲まれた閉鎖的な町での若者のもってゆきようのないエネルギーが内面と行動と幻想にとぐろをまく。そのうねり、滞り、はじけ、抑圧、利用、もどり、途切れ、延々と続くイメージとストーリーが編集されている。どこで終るのか。主人公の破滅か。エンディングは、舞台となった寺での花祭り。多分実際に行われた祭りの様子を撮影したものであろう。まかないをするご婦人たちの姿など、まちづくりをやっている人たちにとっては地域コミュニティが生きていると賞賛されるような場面。主人公は不在のまま閉じる。そして、エンドロールでは、その寺の古い方の建物(主人公の住まいであった)が解体されるシーン。ここで、作者に、なんというか、シナリオにはなかった現実のインパクト、というようなもの、「なんなんだよ、これ」みたいな感覚が映画に貫入してきたのではないだろうか。公営住宅が取り壊されることはストーリーに組み込まれていたし、実際に解体された現場を主人公がめぐるシーンも効果的に使われていたが、この寺の建物自体の解体は予期されていなかったのではないだろうか。 長く時間をかけて製作された映画だと思う。その時間の経過の中で、単なるロケ地としての舞台ではない、現実の空間、社会、人の出来事と、シナリオとが拮抗し、渾然一体となった「映画」という形のイメージが見えたように感じた。 さて、「サウダーヂ」を夫が見に行くというので、私も一緒についていく。同じ映画をこんな短期間に二度みることなどまずない。二度目はストーリーを追うことに神経を使わなくてよいので、よりリラックスして見られる。そのため、さらに8ミリだった「雲の上」との比較もあって、絵としてのきれいさというか、安定感が印象に残った。字幕では伝えきれない言葉と文字によるこの映画のクオリティが、海外映画祭でどのように伝わったのか不思議であったが、絵がかなりいろいろなことを伝えているということを改めて感じだ。その意味でも、これは「映画」なのだ。(もっとも、多くの商業映画と比べれば、絵の演出は貧しい。ライティングという技術による絵の語りを「映画」の真髄だと考える人には、まったく評価されないだろう。その反面、私たちが日常を風景としてみるときのような、切り取るという意志のベクトルのリアリティがすべての絵にあり、これはどうだ!というドキュメンタリーの絵とも異なる映画としての演出だと思う。) 二度目の2時間47分の体験の後には、全体の完成度の高さがより強く残った。11月に書きかけた、いくつもの、うわぁっ、と思ったシーンは、やはり、うわぁっ、と思った。 ひとつだけ、やはり一番、ぐっと、ぞくっとしたシーンを挙げる。それは、ラストに近い、ヒップホップグループのリーダーがブラジル人を刺すために無人の街を歩くシーンだ。目線より低い位置のカメラが甲府の商店街を急ぎ足で折れ曲がり、貫いていく。そこに捉えられた街の姿にやはり、息が止まった。 ドキュメンタリーではない。社会派メッセージ映画ではない。物語である。しかし、小説のように作者が描き膨らませたイメージとしての物語ではない。オール・ロケである。固有名詞のついたまちでのロケであるが、ご当地映画ではない。イメージに合った場所として選ばれた絵としてのロケ地ではない。 場所や、空間を生きる、と私たちはよく言う。生きられた場所。生きられた家。生きられるということは、実は、場に対する主体のオープンエンドなフィクションが編集されることなのではないか。「サウダーヂ」という映画をみて、そんなことを考えた。(Yoh)
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