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2020年 09月 05日
昨日乗換駅の本屋に5分滞在のなかで、仕事の役に立たない感に惹かれて求めた一冊。池上俊一「動物裁判―西欧中世・正義のコスモス」講談社現代新書。一気読了。知らない著者。帯にひかれて手にとって、奥付をみて1990年9月発刊で2020年9月に第23刷とあるのが求めた主たる理由。 11〜12世紀に萌芽、13世紀以降本格化、14-16世紀にピークを迎えて、18世紀までつづいた動物裁判。これは、ブタ、ウシ、ウマなどの家畜から果てはネズミやバッタまでが被告として裁判にかけられ、判決がくだされ、有罪となれば処刑される、という正式な裁判。罪はこれら動物によって人間が殺された、怪我をした、農作物が壊滅した、というもの。中には獣姦の相手として人と共に処刑される場合も。 本書の前半では、この動物裁判の具体が綴られる。そのディテールが文書として記録に残されているところがすごいし、それをフランスの図書館で読みふける著者の仕事もすごい。被告は裁判所に出頭するように要請されるが、出てこない(当たり前ではある)。3回呼び出しても来ない場合は、被告欠席の状態で裁判が行われる。弁護もついて、その弁護者の切切とした訴えによって無罪となったネズミもいたりする。処刑は公開で見せしめ的な形となる。バッタやネズミなど被告を捕まえられない場合は、聖職者がそれらを破門する、という刑罰が処される。かかった費用の明細まで語られる。 こうした動物裁判を、本気で真面目にやっていた、というところが帯にあるはハチャメチャな面白さ、ではあり、確かに面白いのだが、歴史学としての肝は後半の第2部で、なぜ中世にこのようなことが起きたのか、の読み解きが行われる。 まず、中世という時代は近代に負けないくらいの革命が起きた時代である。家畜に引かせる重たい鋤、水車、風車、三圃農業による農業革命、恐れの対象であった森の開発、そして経済中心としての都市の誕生。自然を征服するという行為の展開が起きた時代として確認。 同時に土着的に様々であった信仰や制度がキリスト教といういわばユニバーサルな世界に移行していく時代でもある。それとともに、自然に対する感受性がこの時代に大きく変化・展開していくことが、景観・風景の発見として語られる。我々景観研究者にはお馴染みの話がここで出てくることにちょっと驚く。つまり西欧においては自然は風景として鑑賞する対象、少なくとも美しいと思って眺めたり、自己の心情を投影しながら眺める対象でなかった時期が長く、ようやく14,5世紀にそうした眼差しが生まれてくる、という話である。合わせて科学や哲学の転換もこの時代に起きてきて、つまり自然と人間の世界観が大きく転換したのが、ちょうど動物裁判が行われていた時期であった。 「自然のはかり知れない威力の前に平伏し、それを呪術的な方法で慰撫しつつ自然と共生し、自然の一部として生活を送ってきた」(p148)時代や、「風景を人間社会の論理から解きはなち、風景をそれにむかいあう個人が風景のためにのみ愛好・描写する時代、そして科学的客観性で自然をみて解釈し尽くそうという時代」(p178)のどちらの時代にも動物裁判は成立しえず、その転換過渡期において現れたのである。また動物裁判は、被害をうけて訴える、またその裁判と結果の処刑に立ち会う大衆と、国の制度にもとに体制化されていく裁判制度のなかで動物裁判を求め、執行していたエリート層、というそれぞれ異なる眼差しの両方があった故にも、この時代にあり得た。 「動物裁判とは、まさに自然界にたいする独善的な人間中心主義の風靡した時代の産物であった。それをイデオロギー的に裏打ちしたのは、権力と結びついた人文主義と合理主義である。その具体的展開をゆるした社会的現実としては、自然を支配・搾取するための不断の戦いがあった、といえるだろう。」(p212) なるほどー。そういう読み解きですかぁ。自然と人間の関係、およびその変遷という大きなフレームの中に置いたとき、西欧の中世という時代は実に面白い。本書でも最後に少しだけ言及されているが、それは日本の中世、日本の自然と人間の関係性とは大きく異なるものであることも、再確認できる。 ところで、記述として気になったこと。著者は「わたし」でなく、「わたしたち」という。これは著者と読者が一緒になって、歴史の読み解きを進めている、というメッセージなのか。もう一つ、2箇所、一瞬目を疑うような差別的な文節が出てきて驚いた。もちろん、その時代にそう言われていた、ということなのであろうが全くそうした注釈はない。初版1990年。30年前はそういう感覚だったのだろうか。
by yoh-lab
| 2020-09-05 13:49
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