カテゴリ
以前の記事
2020年 11月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 04月 2019年 02月 2018年 12月 2014年 12月 2014年 09月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 01月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 お気に入りブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2020年 11月 24日
何事もスマホ一つで済ます息子が、封筒はあるか、切手はあるかといって、何やら書類を書いているので、何をしているのかと聞いてみた。すると、寮のネットの契約を変えたのでそのキャッシュバックの申請をしているのだという。いわく、「これずるいんだよね。契約してから半年後、忘れた頃にしなきゃいけなくて、しかもその時に必要な情報は最初のメールにしか書いてない」、と。数万円のキャッシュバックを得るためには、そういうことを初めにちゃんと理解して、最初のメールを保存し、カレンダーに半年後にリマインドする設定をしておけるというリテラシーがいる、ということを知る。しかも最後に書類を郵送するところで、切手の値段など知らない若者には料金不足で返送されてくるという関門まである。(実際息子は封書にいくらの切手をはっていいかまったく見当をつけることができなかった)。 そういう仕組みを考えている会社の会議の様子を思い浮かべた。申請の時期や方法をこういうふうにすると申請率が何%ぐらいになって、一方キャッシュバックの額をいくらにしてキャンペーンをこう打つと契約率がこれくらいになって、だからこういうふうにすると利益がどれくらい出ることになる。説明不足と訴えられないためには、云々。今時の商売の議論は大方そんなふうなのかもしれない。それはそれでデータを集め、シミュレーションして、広告デザインとメディアの企画を検討して、、、。会社とは無縁な日々を送る私は、ぼやっとその会議の風景を想像してみる。会議室は明るくて、清潔で。集まる人の物腰は柔らかく。その仕事の担当者は決して人を騙してやろうなどということではなく、ゲームのルールをつくり、回し、プロジェクトとして成立させるという、きわめてクリエイティブな仕事にやりがいをもって取り組んでいるのであろうなあ、とも。 さて私たち消費者は、そのようにして差し出されたたくさんの商品から選ぶ自由を享受する。情報を集めて、比較して、どれが一番お得なのかと。何かを賢く入手するためのリテラシーとして、メルカリをチェックすることに始まり、多種多様なポイント、ふるさと納税、GO TO。さらにはそれら多彩なサービスからよいものを選び、ガイドしてくれるサービス。そういうものに丸々囲まれるようになったのは、そう古いことではないはずだが、すっかりそれが当たり前になっている。 一冊の本を読んだ。熊代享「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」。2020年6月1刷、10月に3刷。著者は1975年生まれの精神科医であり「シロクマの屑籠」というブログで発信しているという。大船のペンギンの本屋で偶然見つけて求めた一冊。骨子は帯に集約されている。 「現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。 生活を快適にし、高度に発展した都市を成り立たせ、前時代の不自由から開放した社会通念は、同時に私たちを疎外しつつある。メンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解く。」 私自身は「生きづらさ」とは遥か遠い日々を送っている。しかし、日々の行動がその「いきづらさ」という領域を前提にし、それと離れた「まともな人間の条件」に自身は身を置こうとしている、ということを改めて思う。 例えば大学における学生への接し方について、この10年以内の間に、さまざまな方策や知恵が整えられた。各種ハラスメントに対する注意に始まり、学業がうまくいかずに悩む学生やひきこもりかけている学生への接し方などである。大雑把に言えば、そういう「生きづらさ」を抱えた学生には、「がんばれ」とか「どうしたの」とか教員個人が立ち入るよりも、カウンセリングや専門医に任せた方がよい、という方向になってきた。幸い私の研究室にはそこまで深刻な状態にある学生はいなかったが、卒論を書き上げることができぬままフェードアウトしていった人は何人かいる。それ自体は人生の一つのあり方として全然不思議ではないと私は思うし、どこかで元気に生きてほしいし、応援できることはするよ、くらいに普通にうけとめている。 さて熊代の著書、「第2章 精神医療とマネジメントを望む社会」では、心の問題が社会に適応できないという行動の現れとなりし、それが見出され、ADHDやASDなどと診断・理解され、処置がなされ、その結果問題視されていた行動の改善やその行動への対応が準備された社会への復帰を目指そうとする、というプロセスというか社会構造が具体的に綴られる。これは、現代を「まともに生きられる」集団が中心にあり、そこからはみ出している人たちがそのはみ出しの程度によって同心円的に付置された社会、名付けて「秩序と社会適応の同心円」として描かれる。そして福祉とは中心から外周へと手を差し伸べるもの、として位置付けられる。この構造自体を否定するのは極めて難しい。しかし、この社会構造は決して人類の歴史において長くあり続けてきたものではないし、この社会構造ゆえの「生きづらさ」や「不自由さ」を感じざるを得ないという感覚は拭えない。予想通り、伊藤計劃の「ハーモニー」にどこかで言及されていた。 「第3章 健康という“普遍的価値”」 がもたらす格差や不自由さ、死生観の減退、「第4章 リスクとしての子育て、少子化という帰結」の抗えないメカニズム、「第5章 秩序としての清潔」という価値観が排除するもの、「第6章 アーキテクチャーとコミュニケーション」の無意識のうちの支配。この本のタイトル「健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会の不自由さ」が多角的に、繰り返し語られる。そして最終章「資本主義、個人主義、社会契約」というキーワードから俯瞰的論考が加えられる。読み終えた時、冒頭で述べた、いまどきの商売が生み出され、消費されていく日々の風景と、この本で提起された違和感はぴったりと一致した。
キャンパスに戻るなら、私が学生時代を過ごし、いまの職場となっている51号館は18階建てだ。学生の頃は自由に屋上にでられて、そこは一つのアジールだった。職場として戻ってきた17年前、どの階も窓のアルミサッシを開けることができた。そして、年に一度、あるいは複数回、飛び降りて命を断つ人はいた。そのことはなんとなくみんな知っていたし、研究に行き詰まるってそういうことであり、逆説的に研究とはそういうものでもあると思い、心の中で皆合掌していたのだと思う。別のキャンパスで大学院生をしていたときには、よく知るとても優秀な助手の先生や、同じ専攻のとても高明な先生がやはり命を自ら絶たれた。ましてその先生は焼身だった。 数年前、51号館の全ての階の窓にはストッパーがついて、20cmほどしか開かないようになった。かつてあった投身自殺はなくなった。生きづらさ、もしくは大学がもとめる秩序に適応しない、できない人はいる。多分増えているだろう。ちゃんと学び、研究し、成果をあげていく同心円の中心にいる学生の、その外周にいる学生、若い研究者、教員は、その気配や兆しによって一時私たちに緊張を与えるものの、ほどなく見えないところ、私たちの世界から離れたところへマネジメントされていく。同心円の外周にいる人たちは、決して同質ではない。なぜ中心円にいないのか、いられないのか、その理由も意味も様々なはずだ。まして大学というところなのだから。もう一つ別の中心から円を描くことでその人の、その一人ひとりは私にとっての他者としての新たな意味をもってくるだろう。そうした他者と向き合う時に私は何かを得るだろう。失いもするだろう。その事件に自分が向きあえるかの自信は正直なところ、ない。のほほんと生きていきた私の悲しみに対する免疫は極端に低い。意図せざる出来事、出会いとの遭遇はリスクとしてあらかじめ避けられる社会は、その意味でもありがたい。「自分の研究室の学生が自殺されたりしたら困るから」という思いは、誰にでもある。その思いが、「いきづらさ」という領域を前提にし、それと離れた「まともな人間の条件」に自身は身を置こうという選択を後押しする。争うすべは、今のところ、こんなことを時々しっかり考えよう、という程度のことしか見出せない。
by yoh-lab
| 2020-11-24 10:44
| 読んだものから
|
ファン申請 |
||