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2020年 07月 18日
「セヘルが見なかった夜明け」セラハッティン・デミルタシュ、早川書房、読了。 昨日品川の駅なかの本屋で求めた。もちろん何の予備知識も情報もない一冊。駅なかのこの本屋は、時間があれば大概のぞく。ポール・オースターとの出会いもここだった。そんなこともあって、海外小説の棚の前にはいつも立つ。ニューヨークの(私にとって)新しい作家のもの、北京の若手のものなどをパラパラとめくりながら、次に手に取ったのがこれ。 著者はトルコ人(クルド系)政治家で投獄中。獄中で書かれた短編小説12編が収められている。役者あとがきを含めて全140ページなので、数ページで終わるものもある。後述するがトルコは私にとって思いのある国。帯を読み、最初の5ページの小編を立ち読みで読み終え、「好きだな」ということで求めた。装丁も手取りの感触も良い。 激しくなる雨音を聞きながら週末の朝寝坊の中で役に立たない本を読む以上の幸福はない。 目次 我々の内なる男 セヘル 掃除婦ナっち 知った顔すんなってば 黒い瞳によろしく 刑務所内書信検査委員会への手紙 にんぎょひめ アレッポ挽歌 ああ、アスマン 母との精算 歴史の如き孤独 最後は大円団 このラインナップを見ても、政治家らしくない。実際に読んでいけば、トルコという国、およびそれを取り巻く世界の20世期末から21世期初頭の空気、それは喜びも悲しみも辛さも怒りも微笑ましさも全部含めた空気をありありと伝えてくれる。逆に言えば、こうした空気こそが著者の政治家としてのエネルギーになっているのであろうし、そういう若い政治家がいることを羨ましく思い、同時に彼が政治犯として獄中にいることで彼の国の難しさを伝える。 ストーリーに言及し始めると無粋な要約メモのようになってしまうのでやめよう。ただ表題にもつながる「セシル」は、私たちが思い及ばない文化、風習を目撃することでもあるので付言すると、名誉殺人と呼ばれる事象を扱ったものだ。セシルは恋心を抱いたハンサムな若者とその仲間にレイプされる。レイプされた女性を一族に持つことは最大の恥と認識されるためセシルは彼女の弟によって殺害される。その殺害行為を名誉殺人という。救いがない。が、そういう価値観がこの世界には存在する。「にんぎょひめ」はシリアからの難民の少女と母が海に沈んでいる。 読み終えて気付いたのだが、一冊の始まりのページにはこう書かれていた。 「斬殺や暴行の犠牲になったすべての女性たちに捧ぐ」 しかし、捧げられているのは女性たちだけではない。子ども、愛する人を失った男の人たちにも捧げられている。 さてこの本に手が伸びたのは、トルコという国が実際に訪れたことがある国、しかもちょうど30年前、私にとって初めての海外訪問となった国であるから。アンカラで開催された学会に出席し、その後いくつかの観光地を巡りイスタンブールに至るという、印象深い旅だった。ありありと思い浮かぶ風景の断片はたくさんある。 学会のエクスカーションで砂漠のような場所にある遺跡にバスで出かけたとき、我々一行を不思議な目で見つめていたまだ十代ではないかと思うような機関銃を持った兵士に「メルハバ!」と声をかけたときに一変した彼の表情。 プライベートツアーのガイド兼運転手だった若者の仕事の顔の合間にのぞく若者の気分。 ホテルで「What’s your occupation?」と尋ねられて意味がわからず戸惑う私を微かに鼻先で笑ったフロントマン。 地中海に面したレストランで久しぶりに魚のグリルを食べようとしたときに、店員が誇らしげに「これはどうだ!」と大きなボラが差し出された時の我々の驚きと落胆に驚き、次に挿しだしたスズキに歓喜する我々を不思議そうに見た店員。 イスタンブールの路上で売っている果物を買って、皮を剥いて食べたら、「そこにエネルギーがあるんだ」といった街の男の人たち。 などなど、圧倒された建築や風景の合間に刻み込まれた人々の空気が蘇る。高層ビルなど一本もなくまだまだ牧歌的であったイスタンブールは、すでに大きく様変わりしている。そうした開発を手掛け、建築設計会社をどんどん大きくしていく若い夫婦の話である「歴史の如き孤独」。そこには、途上の国の勢いとそこで忘れられかけそうになる精神が、とても美しい物語として綴られていた。 一度だけでも訪れたことがある場所、自らの体験としての記憶がある場所に対して、その場所と空気をたっぷりと含んだ物語を読むことは、そのズレや変化や知らないことの多さも含めて、架空の物語でありながら、そこに生きる人が書いたという意味でリアルな物語として身体に響いてくる。そうした読む体験は、訪れたことのない場所の物語にも、同様の感触を持つことを可能にする。 役者あとがきの中で、アメリカドラマで活躍する本好きの有名女優の言葉が引用されている。 「文芸作品で面白いのは、ほかの世界からの声を聞くことができるということ。自分とは全く違うタイプの人々とつながることができる。偉大な小説はあなたを夢中にさせ、考え方を変換し、どこか違うところへ連れて行ってくれる。また、深く耐えられないような悲しみも感じさせてくれる。そしてその傷を外に押し出すことも。・・・」(p141) トルコ語という誰もが近づける言葉でない言葉を、文学としての日本語に翻訳してくれた翻訳家にも大いに感謝する。 #
by yoh-lab
| 2020-07-18 23:35
| 読んだものから
2020年 06月 23日
斎藤誠「危機の領域―非ゼロリスク社会における責任と納得」読了。この人の「震災復興の政治経済学」を随分前に読んで随分と感心した。そしてこの本を求めたのが、ちょうど2年前。未読のままだったのをコロナというリスクのもとで読み始めた。目次は以下のよう。 プロローグ―「政策失敗の責任を問う」から「政策失敗を納得する」へ 2 環境危機―予防原則の暴走(行政、専門家、住民の間で) 3 地震被害―予防と予知の攻防(専門家と市民の間で) 4 原発危機―「想定内」と「想定外」の間隙(専門家と行政の間で) 5 金融危機―単純化される「危機」(専門家と市場の間で) 6 財政危機―「危機だから」という口実(大学教員と学生の間で) エピローグ―〈危機の領域〉における合意形成の技法と作法 ちなみに2章は豊洲への卸売市場移転問題を扱っている。著者の専門はマクロ経済学。各章には経済学からみた危機対応という項がある。 冒頭に著者のつぶやき、として本書の意図であり著者の意志がワン・パラグラフにまとめられている。やや長くなるが引用する。 「科学は本来、曖昧さを伴うものであるが、リスクや不確実性から自由になりたいという私たちの願いが、危機対応に関する科学にいっそうの曖昧さを強いているという面もある。だからこそ、私たちの社会がそのことに気がついて、専門家は専門家としての、行政は行政としての、市民は市民としての負うべき責任を負担しながら、今よりも少し根気強く、辛抱強くリスクや不確実性に向き合い、さらには危機対応の不幸な失敗さえも納得して受け入れていくためには、専門家、行政、市民を含めた多様な人間が、かなりの忍耐と寛容を持って多様な意見を交換する熟議の場が是非にも必要になってくる。そのような場所こそが、〈危機の領域〉の到着地点となりそうである。」p.ⅲ この熟議の場において、著者は「ボロボロの〈無知のヴェール〉」の重要性を説く。これは前書においても出てきたキー概念なのだが、今ひとつイメージができていなかった。ジョン・ロールズ(およびそれに先立つ)〈無知のヴェール〉という概念に、著者がボロボロの、という限定を付したもの。要は、正義を求める議論や合意形成の場では、自分や相手の立場や属性をヴェールで被って見えないようにして、それらから自由になることが重要というコンテクストで使われている概念。これに著者は「ボロボロの」を付すことによって、完全に見えなくするのは無理だから、所々あいた穴から立場や属性がほの見えるくらいの無知のヴェールを被るという意志を持って熟議に臨もう、と言っている(のだと理解)。 この「無知」という言葉が何に対する無知なのかヴェールというのが一人ひとりが被るのか社会全体を覆うのか、言葉だけからなんとなくイメージしづらく、このキー概念は以前からスッと入ってこなかったのだが、多分上記のようなことであると思う。(と、書きながら、目次に全て、主体属性間の関係が入っていて、本文でも各立場が明示された記述に基本的になっているのを考えると、ボロボロの無知のヴェールに期待されることがちょっと揺らぐ。その他に、薄いとか、厚いとかヴェールの透過性についても言及されている。) 私の理解はこのようにまだ曖昧ではあるが、ボロボロの〈無知のヴェール〉に覆われた環境でできることとして、以下が挙げられている(p15)。 ・自分の立場から少しだけ離れてみる ・自分の専門から少しだけ踏み出してみる ・自分の持っている認識バイアスからできる範囲で自由になってみる なるほど、である。 こうした熟議への基本的スタンスの提示を踏まえ、トランス・サイエンスという専門領域の横断が合意形成のもう一つの重要な概念としてエピローグにて示される。 以上のようなエッセンシャルなナレッジを通底させつつ、各章でそれぞれ異なる危機の事例がスタディされていく。2章の豊洲の事件!は記憶に新しいが、土壌汚染対策法の適用時期および改正時期と行政としての対象地の位置付けの噛み合わせの悪さ(そのような表現はされていないが)が下地になり、論点がずれ、結果的に必要性を遥かに上回るコストをかけた事例の構造が理解できた。3章の地震災害については、イタリアはラクイラで起きた死者300名を超える自身の1週間前に「大地震の兆候はない」政府が安全宣言をしたことに対する裁判の事例と、日本での1978年の大規模地震対策特別措置法に基づく予算のもたらしたものとその後の軌道修正を通した科学と社会の論理の関係、著者による地価の変動の分析などから、多面的に紹介される。4章では前書で非常に丁寧に掘り下げられた福島原発事故における課題のダイジェスト、およびその後の著者の危機への構えの変化を反映した、曖昧な状況への寛容かつ諦めない姿勢。5章ではリーマンショックと日本で呼ぶことが現象の極限られた一面に危機の理解を歪めてしまい、さらには意図的とも思える誤解的誘導や言葉のすり替えによって危機対応を単純化させてしまうことへの問題が指摘され、知らなかったことも多く興味深かった。6章は財政危機について国債のカラクリ?含め近年の日本の財政状況を戦時中の財政状況と対照させながら、超楽観も超悲観も適当ではないが、かなり危機的な状況にあるということが述べられる。ザ・経済の話である最後のこの2章は私の理解を超える部分が多かったが、こうした簡単に理解できないことを粘り強くちゃんと説明し、理解(しようと)することを怠る、怠らせる傾向の危うさはひしひしと感じられた。 さてコロナ危機に対するレッスンは?といえば、直接ここが、という読み方をしていたわけではないが、なんとなく考えるための手がかりととして、以下は忘れずにいたい。不確実性とリスクの違いを正しく理解すること。科学(コロナの場合は医学や感染症・衛生学など)の問題と社会(移動の制限や休校など)の問題、これにもう一つ経済危機という問題が同時に、かつ全世界的に起きている、このややここしさをまずしっかり認識して、それぞれの立場、それぞれのコミュニティでの熟議(とそれに参加することで自身の考えを深めていくこと)を、まさに忍耐づよく続けていくしかないだろう、ということ。不安から逃げたい為の単純化や丸投げや盲目的ルール化とは真逆の方向だ。ゼロリスクということはありえない。ある幅を持った危機の領域に私たちはずっとこれまでも、これからも生きている。そのことと真正面から向き合って調査・研究・論考・熟議を続ける著者には本当に心から敬意を抱く。 #
by yoh-lab
| 2020-06-23 17:47
| 読んだものから
2020年 05月 17日
誰ぞのブックカバーチャレンジに上がっているのを見て注文した、半藤一利「昭和史」戦前と戦後、二日弱で読了。文庫で千ページ以上だが授業と称される語りなので読みやすく、一気読み。著者は1930年生まれ、文藝春秋で編集と執筆をし、「日本の一番長い日」など多くの著作をなす。戦後土木史なんてことにも首を突っ込んでいることもあり、戦後編が本命だったのだが、面白かったのは戦前編。張作霖爆破(S3)から始まり、いかに戦争に入っていき(回避できずに)、始めてしまった戦争を引きずり、他の選択肢がないという形の降伏までの道のりが多面的に、明快に語られる。断片的には聞いていたことを時系列で「つまりこういうことだったのだ」と教えられる500ページには、やはり唸ってしまう。今から思えば、なんで?なんて!の連続。 それにしても登場するのは男性のみ。あり得ないことだろうけれど軍隊や政治の決定の場面に女性が入っていたら、違う道に行ったのではないかなあ、と思う。誤解を恐れずに言えば、「その兵隊さんたちの食事はどんなふうなんですの?」「怪我の手当はどうなさるの?」というようなまるで違った場面を思い描きながらの発言が、「(はっきりわからないが)ではそういうことで」、とか「(根拠のない自信や想定のもとで)必ずこうなるのだ」みたいに決定されていく場面に挿入されたとしたら、どうなっていたんだろうか。。 期待の戦後編は、正直ちょっと期待外れ。確かに降伏から憲法制定、ドッジライン、講和条約締結、安保制定までの部分は、なるほどそういうことだったのね、と戦前と同様なトーンで興味深く読めた。高度成長期への展開あたりについては、沢木耕太郎の60年代3部作になるはずのうちの2部「危機の宰相」と「テロルの決算」で濃密に既に辿っていたので新しく知ることは特になく、その後については、同時代を編集者として走り回ってきた著者自身の体験の記述が中心となり、かつ1972年以降は、まだ歴史になっていないからと抽象的なまとめで昭和が終わる1989まであまりにざっくりと括られる。 2006年刊行なので仕方がないかもしれないが、戦前から1950年代までの相当に調べ込んだものに基づく記述と比べると、自身が生きた同時代の体験の振り返りは同じ歴史の語りとは言い難い。また戦前戦後含めて、インフラのことはほとんど出てこない。新幹線がオリンピックとセットで登場する程度だ。国土の構想と開発がこうした歴史の中心的な動きとどのように連動して、影響されて、あるいは淡々と進められていったのかはやはり知りたいところだ。いずれにしても、全体的には知らないことをたくさん知ることができた。近現代史を知るための良書です。 さて、読み終えて思ったことの一つに、「ハイコンテクストな社会」、がある。よくもあしくも、その場面、その背景、発言されないこと、に依存したコミュニケーション。コンテクストを共有しているからこそ成り立つコミュニケーション。ずっとそういう感じで来ているんだなあ、と。コンテクストは読み方によって大きく変わる。読む力は人に依存する。議論のベースとなる情報をあえて提示しないということは、意思決定に必要なデータの吟味と共有が不在のままの意思決定を招くことにもなる。この選択や決定が意味するところ(メタレベルでの意味、あるいは、その先の展開)を確認しないままの決定ともなる。コンテクスト依存が悪いとは全く思わない。勧進帳が成立するコミュニティこそ文化であり、教養であり、時に人情や徳といった言語化しづらいが大切なものであろう。しかし勧進帳でいける事象と、そうでない事象、その見極めとそれぞれに基づいた適切な対応こそが、重要だろう*。いやそもそもコンテクストが読める人、読む力を持っている人が減っているのではないか。空気を読むこととコンテクストを読むことはまるで違う。空気しか読まないと、コンテクストは読めなくなる。気をつけよう。 *本書で言えば、戦前編でアメリカとの戦争の道を取ることが決定される御前会議の場面(御前会議では事前にすべてが決定されているので天皇は意見を言わない)。 「すべての説明を聞き、総帥部の発言も終わった後、天皇は突然、懐から明治天皇の御製(和歌)を出して朗々と詠みあげたのです。よもの海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらん 世界が平和であれと願っているのに、どうして波風が立ち騒ぐのであろうー天皇が御前会議において発言されたというのはこの時だけです。では、天皇はもう諦めていたのかということになるのですが、そうでなくて、対米交渉をなんとか頑張って妥結に持って言ってほしいという気持ちがまだあったかと思います。そのことを閣僚にも軍部にも言いたかった。それがこの歌というわけです。」p362-3 いやこの箇所を読んだ時、ひっくり返りそうになりました。いろんな意味で。。。 #
by yoh-lab
| 2020-05-17 16:52
| 読んだものから
2020年 04月 22日
2020年4月21日 ジョン・アーリ「モビリティーズ 移動の社会学」吉原直樹・伊藤嘉高訳 読了 移動と人に会うことが排除された社会を考えるためには、そもそも移動とは、人に会うとは、何だったのかを考えないといけない。そう思って、しばらく前に求めてそのままにしてあったこの本を開いた。ジョン・アーリは「観光のまなざし」をずいぶん昔に読んでとても面白かった記憶がある。場所および景観が観光という人の行動によってどう生まれ、変わっていくのか。そんな単純なことではないけれど。 さて本書は3部構成。 第1部「モバイルな世界」 第2部「移動とコミュニケーション」 第3部「動き続ける社会とシステム」 全13章 本文のみで427ページ。12時間ほどかかったが、真っ白なスケジュール帳のおかげで二日で目を通すことができた。 第1部は移動を考えるための枠組みや視点が多くのレファレンスから綴られるいわば理論概念編。ジンメルはじめ社会学の諸理論に疎いものにはしんどいが、興味深いキーワードや整理に出会える。 第2部は移動のモードごと、つまり、歩行、鉄道、自動車、飛行機、通信についてその歴史的展開と現在が示され、いま私たちが置かれている、こんなにもあちこちへと移動している(させられている)状況が時間軸を踏まえて多くの視点から記述される。移動は極めて多様なかたちとしてあり、そのかたちは移動の手段、目的、主体、システムが生起する環境によってアフォードされているというように、双方向的(ギブソンのアフォーダンスが参照されている)に捉えられている。第2部はいずれの章も社会の記述として読んでいて楽しい。格差や差別、家族のかたち、環境とインフラなどなど、つまり社会がモビリティとして、またモビリティによって記述されていくのだ。 そして第3部には、ネットワーク、人に会う、場所、といった、今まさに読みたい章とともに、未来への展望、予測が綴られる。いきなりここを読みたい気持ちを抑えて、長くときに難解な部分を超えてたどり着くことで、懐が深いモビリティというコンテクストの中で読むことができる。 要旨を伝える力はないが、備忘録的に摘んでおこう。 例えば、モビリティを成立させるネットワーク資本という概念とその内容。 ・数々の適切な文書、ビザ、貨幣、資格 ・離れたところにいる他者 ・運動能力 ・居場所に制約されない情報とコンタクト・ポイント ・通信デバイス ・適切で安全で備えが十分な会合の場 ・自動車などへのアクセス ・これらを管理、調整するための時間などの資源 なるほど、である。この資本にアクセスできるかどうかがモビリティにおける格差となる。災害があったときに安全な地へ避難できたかどうか、まさにネットワーク資本の有無が左右したことを思い出す。 次に「人に会う」の章は、今のCOVID-19下で人に会えない状態とは、ここに記されている多様な「人に会う」という機会と価値と義務の支障ということなのだ、として読む事になる。なんとなく移動できない、会えないと一括りにしてしまっているが、そもそも「人に会う」ということは、この本では社会的ネットワークのつながりがある(知っている)ことから、旅(移動をして)そこにいく、対面で話す、仕事の会合、家族や友達と会う、というように丁寧に区分されている。会うとは会いにいく移動の過程、それに先立って会う計画を立てることも含めて、一連の行為である。その一つ一つの会うという行為ごとに、意味や目的、場所、形があり、先のネットワーク資本が絡んでくる。日々のZoom会議やZoom飲みで、オンラインで代替できることが多い気にもなっているが、直接会う代わりにオンラインで会うことは、何は失われ、何が保たれ、何が生じたのかを一つ一つ丁寧に考えていかなければならないと思う。 終章の「システムと暗い未来」では、なんだかんだといっても自動車がモビリティの中心であることから気候変動や石油資源枯渇といった想定を踏まえて、暗い未来と希望のある展望が示される。明るい未来、ポスト自動車システムの社会の姿では、人々はさらに密集し、統合された市街地に住む、との記述がある。その言葉は出てこないがコンパクトシティやウォーカブルシティに通じる。自動運転という言葉も出てこないが、ソサエティ5.0に通じる提示はある(原書の発行は2007年)。 しかし、どこにも今日のパンデミックは想定されていない。(第2部で過去のそれには言及されている)。テロや気候変動、経済格差は想定されていても、今回のような全世界的な移動と会うことができない状況への言及はない。 けれども、ポストコロナの社会、都市を考えるには、そもそもたった一ヶ月前には私たちがその只中にいたモビリティに溢れた社会、それを重層的、動的、多元的に捉えたアーリのこの本は、丁寧に参照される必要があると思う。 #
by yoh-lab
| 2020-04-22 01:25
| 読んだものから
2020年 04月 17日
2020年4月17日沢木耕太郎「テロルの決算」と「危機の宰相」読了。極めて興味深く、じんじんしながら読んだ。 この2冊は、外出自粛始まりのころに一気に読んだ著者によるインタビューシリーズ(「達人、かく語りき」「青春の言葉たち」)のなかでも繰り返し言及されていた1960年代シリーズであったため。先に「テロルの決算」(社会党党首浅沼稲次郎と彼を殺害した17歳の山口二矢のこと)を読み、次に「危機の宰相」(所得倍増計画を推進した池田勇人首相とその計画をつくる中心人物下村治、田村敏雄のこと)を読んだのだが、世に出た順番は逆。逆ではあるがそうとも言えない。「危機の宰相」は1977年に文藝春秋に掲載された。月刊雑誌への掲載であるから長さに制約はある。それを単行本にするより先に「テロルの決算」が1978年に単行本となる。つづいて構想されていた「未完の六月」(全学連元委員長唐牛健太郎と学生運動のこと)はついに書かれなかった。そして文春に掲載されてから加筆されて単行本として「危機の宰相」が世に出るのがなんと2006年。まずこのこと自体が「本」「著作」しかもノンフィクションのそれとして、当然ながらそれをなす著者の物語としてずしんとくる(この出版経緯を知るのは2冊を読み終わる直前のあとがきによってなのだが)。 もちろん、政治経済に疎くぼーっと生きている私としては、2冊で初めて知ったことがとても多い。「社会党がうまれるときってこうだったのーー!」とか、「子どもの時に有楽町で時々見かけたことがある赤尾敏ってこうことやってたのーー!」「池田勇人ってこういう人だったのーー!」「大平、福田、宮澤、という後の総理大臣になる人たちはここからきてたのーー!」などなど。。つまり今に繋がる政治の(多分ほんの一コマであるが)基礎知識なさすぎの自分にとっての情報を伝えてくれたという意味で、とても面白かった。そしてこれらの情報は、やはり今を生きる大人としては知っておくべきことなんだなと思う。 1960年代を高度成長期とひとくくりに呼び、その後のオイルショックによる停滞の70年代、バブルの80年代、模索の90年代、まとめて失われた20年、30年などとザクッと区切って、それぞれの時代の都市やインフラのデザインの特徴と課題、展開を授業でも話す。それは今を理解するためのコンテクストとして必須だと思うからである(もちろん戦前の都市、近世の都市についても)。 1961年生まれの私は、敗戦の名残のようなものは見ることなく、60年代の激変というのも比較的穏やかな変化として見て育ってきた(せいぜい裏山が住宅地になる程度のこと。これは公害や海が失われていくことに比べれば穏やかな変化だ)。学生運動の記憶は全くなく、浅間山荘事件をテレビで見たくらい。 しかしやはり、戦後の今に続く大きな仕事は、やはりこの60年代にあった。その仕事が、あるいはその仕事をきめる政治や思想がどんな風だったのか、というのをこの2冊で少しは知ることができたのは良かったな、と思う。戦後経済、戦後政治についてはもちろん膨大な知がそれを研究対象として注がれていて、そこは専門外の人間が手を出せるところではない。その意味でもこの沢木のノンフィクションには感謝する。あるいはフィクションでもその時代、社会をとてもありありと伝えてくれるものは少なくない。小説家は下手な研究者以上に調べている。そういう「物語を書く」という仕事をしてくれる人に、心から感謝する。 読み終わった瞬間に、インプットされた情報や考えではなく(情報は読みおわった時点で半分以上忘れている)、なにかがぐるぐる、ふわふわ、じんじんと頭のなかで動いている。その感じをもうすこし形にして、自分の仕事につなげられればいいのになぁ、、と毎回思う。けれどもこれをする努力という能力がなく、「ああ、面白かった」で終わってしまうのであります。 できれば、この60年代にインフラを作っていった人たちの、黒部の太陽的なまなざしではない、考え方、理論、事実について、ノンフィクションとして読みやすく、深くどなたか書いてくれると嬉しいなあ。あ、そうです、篠原修先生の「河川工学者三代は川をどうみてきたか」は、その河川編としてもっとタイムスパンを長くとった素晴らしい本でした。 #
by yoh-lab
| 2020-04-17 10:51
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