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2014年 05月 31日
5月29日木曜日の夜遅く、名古屋の家に帰った。翌30日の夜に帰る予定であったが、恵那市の明智川の近自然改修の仕上げ工事が前倒しになったので、一日早く返ることにしたのだ。夫にはその旨夜メールをいれておいた。
11時半ごろ到着。家の電気が消えている。嫌な予感がした。案の定、チェーンロックがかかっている。 チャイムをならす。反応なし。 夫の携帯に電話する。反応なし。 家の固定電話に電話する。反応なし。 閉め出された。 寝入りばなで熟睡しているのであろう。しばらく待つか。 幸い陽気はよい。3階にある玄関ドアの前の階段に陣取って、パソコンを開き、メールのチェックなどしながら、度々家の電話に電話する。手元の携帯と扉の奥の電話とが、ほんのわずかなずれをもって鳴りつづける。 だめだ。起きてこない。携帯には充電してください、との表示がでている。 どこかホテルに泊まるか。ネットで検索するも、手頃なところにない。そうこうするうちに深夜1時近くなってきた。蚊がいるのか、足元がかゆい。 しかたなく、すぐ近くの大通りに面したファミリーレストランにひとまず移動する。24時間営業とある。初めて入る。 店内は明るい。そこここに、若者がいる。この時間に一人で入ってくるおばさんはいない。メニューを何度見ても注文したい品がない。しかたなく、きのこ雑炊とドリンクバーを注文する。 やれやれと一息いれる。コーヒーカップを探してマシンのボタンを押す。ふと見ると、私がとったのは、朝のスープ用のカップであったらしい。まあ、よいか。 幸いパソコンのバッテリーはまだ持つ。小さい原稿を一つ書くことにした。ドリンクバーやトイレを何度か行き来しながら、店内にいる人たちを観察する。近くにいる4組は、みな勉強している。大学生だ。理系らしい。無言で向かい合って数式を書いている男子学生二人。二つのテーブルをつかって明るい声でなんとかの式がどうだこうだと言い合っている4、5人の男子学生グループ。角に陣取って向かい合ってひたすらノートに何か書いている女子学生二人。その他に、男女一組も勉強しているように見える。ほとんど皆、明るい茶系の髪をしている。 喫煙コーナーは腰壁とガラスで仕切られている。そちらには、若いサラリーマン二人。待ち合わせで来たようだ。他にもちらほら。無言で勉強する男子学生がときどきルーズリーフをもってそちらに入っていくから、多分タバコをすう友達がそちらのコーナーにいるのであろう。 深夜のファミレスというと、なんとなく行き場の無いヤンキー的な人たちのたまり場になっているのかと思っていたが、全くちがった。ちょっとした驚きである。もちろん、青色と銀色のつんつんの髪をした3人がまっすぐ喫煙席に向かって入ってきたことはある。 かれこれ3時だ。充電が切れていた携帯にもう一度電源を入れて見ると大丈夫。祈る気持ちで自宅に電話する。夫の声がした。 706円を払い、寝静まった通りにでる。道路清掃車がすぎていった。 さて、振り返って思ったことをいくつか。 深夜のファミレスで働いているのは接客をする店員が一人。多分キッチンも一人ではないだろうか。人件費はことごとく削られている。店員に、公衆電話はないかと訪ねたとき、「ここには無いですが通りのちょっと先にあったような気がするんですが、」と首を傾げながら話す様子が、予想と異なって一人の人間らしくて好感をもった。働き方と働く人の関係を頭から固定的に決めつけてはいけないのかもしれない。 勉強している学生たちは、きわめてまじめでそうある。家で一人やろうと思うと寝てしまったりするからだろうか。友達の家に集まるのもなにかと窮屈なのだろう。その意味で、深夜のファミレスは、図書館ロビーのようなパブリック性を持っているのかもしれない。しかし、女子学生二人は、私が帰ろうとした3時過ぎに、一息入れるつもりか何かを注文していた。何時までいるつもりであろう。帰路は大丈夫なのだろうか。古い人間からみれば、気質(かたぎ)の娘さんがこんな時間にこんなところにいて大丈夫?と思ってしまう。何れにしても、都市に暮らす若者の居場所という問題も、ステレオタイプで考えてしまうのはよくないと思った。 そして家について。一戸建てではあるが1階が駐車場、2階が事務所でその3、4階の住居を借りている名古屋の家は、玄関以外から入れるところが全く無い。南北にあるベランダには縄梯子でもないかぎりアクセスできない。あったとしても登れる自信はない。一方鎌倉の家や母の家は、玄関の鍵がかかり、チェーンがかかっていたとしても、なんとか入れる家族だけが知っている秘密の方法がある。そういう状況はプロの泥棒から見れば、簡単に侵入できる家なのかもしれない。ただどちらの家も、そのロケーションが侵入をさせづらくしている(と、思っている)。セキュリティはいまや住宅の最大の関心事になっている。玄関扉だけをきっちりガードすれば防犯は大丈夫!きっとそういう家が多いのだろう。そうだとすると、私のように深夜の閉め出しを経験する人も多いのだろうか? いやきっと、チェーンロックなどというアナログではなく、スマホでどうのといったデジタルなセキュリティシステムを使いこなすから大丈夫なのだろう。 ハプニングは、思いもよらないことを知ったり、考えたり、想像させてくれる。ま、たまにはいいか。(Yoh) #
by yoh-lab
| 2014-05-31 15:15
| 日常
2014年 03月 03日
ソチオリンピックが終わった。話題の中心はフィギアスケートだった。わたしも、団体戦男子ショートプログラム・男子個人、女子個人、都合5つのプログラム とエキシビションの生中継を夜中に全部見た。
一つは羽生弦結君である。4年くらい前からこの子は注目していて、まさにこの1年の飛躍的な成長のタイミングに2014年2月という時期が交わってきたことの不思議さと、息子と同い年ということから若者の生き方のようなものへの好奇心を呼び、珍しくどきどき心配しながら画面を見つめるということになった。 真央ちゃんの物語は誠にこれも驚きで、月並みだが心に響いた。高橋大輔だってすごいドラマである。 以上の日本人注目選手の話題があまりにドラマチックだったので、それにまぎれてしまうのだが、4時間×6晩という時間、氷の上で舞う人々を見続けてしまうのはなぜか。夫に、なんでそんなに真剣に見ているの?と聞かれて、改めて考えてみた。 それは、言語化できない姿への興味、だと思う。 ジャンプが決まったとか、スピンのフォームがどうだとか、そういうことだけでなく、何とも言えない、身体の姿と動きとによって瞬間にまた全体として漂ってくるひとつひとつ、ひとりひとりが出現させる雰囲気、感じ、感触、アイデンティティ、色、そんな感じが、3、4分という時間に凝縮されて、かつ、個性的な二十数名によってつぎつぎと繰り出されてくる。 そんなことは、他にはないのではないかしら。 ダンスや舞も、身体と姿と動きの世界である。あまり縁がなく、これらを見ることはほとんどない。が、むかし、能を何度か見に行っていたときには、ほんのわずかな所作で人物の年齢や場の空気ががらっと変化する感覚に鳥肌が立ち、その感じがすきだった。この世界はすごい。しかし、それを体験するにはじっくりと構えなければならない。 ダンスにしても、例えばマイケルジャクソンのそれは見るたびにすごいと思うのだが、すごすぎて、速すぎて、複雑すぎて、疲れちゃうのである。 それに対してフィギアスケートは、まず、緩急があり、ポジションは静止しつつ滑って行く瞬間があり、高速スピンやジャンプではアニメーション効果のような形と見えの関係がある。選手の体型の影響もあるが、高橋大輔のようにそれを超えた美しさや優雅さが浮かび上がってくる。 じっくりと見てしまう割には、知識と情報には疎いので、この選手はどうでこうで、というのではないが、さすがに有名選手においては、ああ、これがこの人の、という感じもある。プルシェンコの堂々たる躯体から出てくる優雅さとか、パトリック・チャンの肩への腕のつき方と腕の振りとか。どこがどうと指摘できないのだがキム・ヨナのトータルな色香とか。 つまり、そんなことに見入ってしまうから、フィギアスケートを熱心に見てしまうのである。 ところで、人に対する記憶というのは、顔形の眺めだけでなく、仕草や声、言葉の調子という言語化できない、写真にとらえられない雰囲気に深く結びついていると思う。何年も会っていない人に久しぶりにあったとき、「あ、これこの人の話し方だった」、「あ、この首の角度、そうだよね」というありありとした感覚が蘇ることがある。いつも会っている人だってそうだ。中村良夫先生の立ち姿勢と歩き方、とか。 身近な人たちの記憶と、世界屈指のスケーター達の演技という作品。まったく異質な視対象であるが、それを眺めるという行為には私の中ではとても似た感覚が作動するのである。言語化できないこの感じ、という感覚。 だからフィギアスケートに見入ってしまうのだと思う。(Yoh) #
by yoh-lab
| 2014-03-03 12:02
| 日常
2014年 01月 11日
今日はなかなか得難い日であった。社会勉強というのか、知らない社会の一面を体験するというか。
病院で2時間待って、1分で終わった、という体験。 もう何年前からか、食物アレルギー体質になった。木の実類。気をつけるようにはしているが、ときどきやってしまう。昨年も2回、病院に駆け込んで点滴をうってもらったり。つまり、だんだんと悪化している。前回は大学の保健室(って言わないか)に駆け込んだから、その流れで産業医さんに相談し、出張も多いなら、学校給食でも話題になっている「エピペン」を持っていた方がいいんじゃないか、ということになって、女子医大に紹介状をかいてもらって、昨年11月に初めて女子医大に行った。エピペンはすぐに出せないということで、12月に予約して再訪。朝一番の予約だったがそれでも40分ほど待った後、「え、今日は準備できてません」。「は?」。だが、仕方が無い。年明けて、ということで、本日1月11日の14:30に予約。受付やらなんらやあるし、遅れちゃいけないと14時10分頃到着。待てど暮らせど予約番号は表示されない。周囲の人たちも相当長く待っている様子。これは、あきらめて、届いたばかりの都市計画学会誌を読んでひたすら待つ。結局医者にあったのは16時10分頃。完全に2時間待ったことになる。 そこでエピペンの使い方やら何やら説明があるのかとおもったら、「これをもって、ここへ行ってください。今日は準備できてますから。薬局で使い方の説明があります。」と紙を1枚渡された。1分かかっていない。「これをもらうために2時間待った、ということですか」と力なくいうと「はい、そうです」ときっぱり言われた。若くて美人のその医者は、直前に対応していた高齢な患者二人への世間話につきあうような話しぶり(ドアの外で待つ身に漏れ聞こえた)とは全く別人のように、きっぱり言い放った。 2時間と1分後、私は、システムとして見事に高度化されている会計に行き、クレジットカードで会計3530円を支払い、案内地図を見ながら別の別の棟の薬局へと歩む。そこで紙を渡すと、今度はすぐにエピペンは出てきた。「使い方をこちらで教えていただけると聞いたのですが」というと、胸に薬剤師という札をかけた人は、やおら袋から説明書を取り出して広げて、なになに、という感じで目を通し始める。慌てて、「書いてあることなら私も読めます。使い方の指導はないのですか?」と聞くと、「そうですね、これを読んでください」。以上。 うーん。これはなかなかの体験である。 そもそも幸いにも私は病院というところとほとんど縁がない。ただ昨年は、父が心臓をわずらって入院、友人が腫瘍で入院、ということがあったから、高度医療機関としての大規模病院に見舞いにいくということがあった。その他自分がアレルギーショックで行き当たりばったりの病院に駆け込んだり。 そんな体験や今回の女子医大病院の受付やら、会計やら、採血やらのシステムに、ばたばたと接するたびに、毎回おののいていた。また、そこで働く人たちの、異様なほどの丁寧さ、愛想の良さ、親切さにも。巨大なシステムであり組織としての病院、さらには医療の世界というものに、なんとまあ日々自分が暮らしている世界とは違うのか、というおののきを感じていたのである。この世界で働くのって、ストレスたまるだろうなあ、とか、病気になるって大変だなあ、とか。そういった、能天気な感想をはじめとして、今日も、待っている間、周囲の人たちを観察しながら、いろんなことを考えていた。それはそれとして、2時間待って紙きれ一枚を受け取り、「はい」と、取り説とともにエピペンを渡される、という本日の体験は、私に以下の二つのイメージをリアルに想起させた。 その1 映画でみるような、非常時の配給や、出国許可書や、なにやらそんな、ともかく圧倒的権威からもらう以外入手できないものをもらうために、長蛇の列をなしてじっと待つ人々、というイメージ。 その2 規則は規則でシステムはシステムで、それぞれの部分を担当する人々、たとえそれが医者や薬剤師という末端ブルーカラーでない人々であっても、自分が関与した患者という一個のトータルな人間にとってどのような意味をもたらしたかを観ることもできず、また、観ようともしない、観たくてもそれを観はじめるとやってられなくなってしまうという世界のイメージ、そしてその世界で働き続けるひとの気丈さ。 もしかすると医療現場に限らず、この二つのイメージは、いまの社会のほとんどの場面に横たわっているのではないか。たまたま私が暮らしている世界がマイナーなのではないか。その幸運に感謝するとともに、今日接した世界とは、できるだけ遠くはなれた世界を死守ししていけるようにと、強く思った。(Yoh) #
by yoh-lab
| 2014-01-11 00:18
| 日常
2014年 01月 06日
空をじっと見る。たびたび。
なぜかはわからない。 まるで猫が何かをじっと見ているみたいだ、と言われたことがある。よくわからないけど、そうかも知れない。 空とか、山とか、ただの道とか。 なんか、じっと見る。 中沢新一『野生の科学』に収録された、『変容の岬』という小論を読んで、はっとした。じっと見る、ということと、「対称性の知性」が見事に重なったから。 中沢新一によれば、 「言語的な構造の外部で活動を続けている人間の心の別の領域のことを「対称性」をもって働く知性と呼」び、言語的な知性と対称性の知性という「二つのタイプの知性は、同じ人間の心で同時に活動をおこなっているが、その活動には本質的な違いがあって、そのことが人間の心の複雑さの本質をなしている。」(p279) という。 そして対称性の知性の5つの特徴を列挙している(pp.280-281)。全文を引くべきかもしれないが、長いので、極簡略に私の理解で記すなら、こんなふう。 ・過去・現在・未来が同じ空間に共存する ・単独で存在するものがなく全体的つながりとしてある ・情動と知性が渾然となっている ・矛盾したものがそのまま共存している ・(よくわからないが)いろんなジャンプでつながる論理が成り立つ(ということらしい) 空を、山を、ただの道を、ただ眺めているときって、まさにこんな感じがするのである。 そう感じませんか? あるいは以下のような文がある。 「「私が花を見ている」という出来事は、私が花を見ていると同時に、花が私を見ている、という出来事でもある。 (中略) 人が花を見、花が人を見ているという出来事全体のことがまるごととらえられているから、私と花は分離されず、そのことを論理的な矛盾と感ずることもない」(p280) 同書で、この部分に至るかなり前のページで以下の言葉に出会ったとき、私は無意識にページの角を折っていた。 「「私は花を見る」という事態は、同時に「花が私を見る」という事態でもあるのではないでしょうか。そのとき、花と私たちの間には、ひとつの「場」が出来上がっている、と言えます。」 同書収録『民藝を初期化する』p170 眺める、ただ、眺める、ということの意味。 実は、ここ数日は、中沢新一のこの小論集と恩師中村良夫先生が最初に書かれた著作「土木空間の造形」をかわりばんこに読んでいた。単なる偶然。1967年に出されたこの本を、ようやく年末に古本として入手したためだ。金沢大学付属図書館の蔵書印がある日に焼けた本。1万3千円ほど。 それはともかく、記号論として土木構造物(とそれのある環境)を読み解き、それ故設計という行為の意味はかくあるべき、と唱えようとしたこの著作。景観を記号として解釈し、言語的構造によって眺めと対峙する(もちろんつねにそこからこぼれ落ちていく感覚にも目をくばりながら、)ことへの意欲的チャレンジの書。 猫は何を(あるいはどのように)じっと眺めているのか。 私が空をじっと眺めているとき、私は何者なのか。 年の初め、2冊のスーパーな著作を読むという体験。 その体験から、眺めることの本質のようなものが、まずは一つぽろんとこぼれでてきたような気がした。つぎのぽろん、はなんだろう。 ことしもよろしく。(Yoh) #
by yoh-lab
| 2014-01-06 17:05
| 読んだものから
2013年 12月 23日
もうかれこれ10年、コーヒー豆を挽くのにほぼ毎日つかっている電動ミル。もうかれこれ1、2年、調子が悪い。電気コードの接触が悪いらしく、コードの付け根を支えてスイッチをいれると動く。そうやって使い続けている。別に支障はない。しかし今日はコードの支え具合を調整しても動かない。ふたを開けてよく見れば、スチッチ部分にコーヒーの粉が詰まっている。爪楊枝でほじくっていたら、突然動き出して、ものすごい勢いでコーヒー豆が飛び散った。
一瞬何が起きたかと、フリーズ。直後笑いがこみ上げる。そのド派手な飛び散り具合に。たかだかコーヒー豆を金属のプロペラを回転させて砕く小さな機械。しかしそのパワーってすごいんだな。 床に散った豆はまあ、あきらめて、テーブルの上の豆だけかき集め、足りない分を足して豆を挽き、やっと一杯のコーヒーを入れる。 ふと、暴発事故って、こんなふうに起きるのではないか、と思った。例えば今年の夏、どこかの花火大会の会場で屋台の発電機のガソリン引火でおきた死亡事故。ガソリンが如何に引火しやすい物質であるか、そのリスクが身体化していなかったから起きたように思える。 灯油のストーブも、今は皆タンク式になっているが、私の子どもの頃のストーブは、本体の下のほうに直接灯油を入れる構造になっていた。だから給油のためにはいつも火を消して、しばらくしてから入れろと厳しく親に言われていた。目に見えない揮発した灯油に引火するから、と。 ガソリンスタンドでは、今よりもずっと、ガソリンのにおいがした。 家を出るときは、様々な電気のコンセントを抜くようにと言われた。とくにコタツとかポットとかファン式のストーブとか。節電のためではない。火の用心である。スイッチを切ったつもりになっていても、間違えることはある。でもコンセントを抜いておけば熱が出ることはない。サーモスタットとか、転倒自動消化機能とか、そういう安全装置を信頼しきってはいけない。 私の実家が鎌倉の谷戸の奥、つまり車が入れない道の突き当たりにあったから、火事を出すことに人一倍神経を使っていたのだとは思う。あるいは父は砂糖をつくる工場の管理や時に設計までする仕事をしていたからだと思う。事故はどういうときに起きるのか。 電車に乗っていて、全身をドアに預けている人をみると不安になる。もし突然ドアが開いたらどうなるか。あり得ない? 確かに。そんな事故は聞いたことがない。しかしドアというのは開閉するものだ。もし開いたら、という想像である。 あるいは、これは比較的最近のこと。地下鉄の副都心線、東新宿駅で急行の待ち合わせで停車中、私はホームの一番後方にいた。車両の中にいれば気づかないが、追い抜いていく急行列車はものすごいスピードで近づき、ホームの直前で列車が停車している線路と分岐して走り抜けていった。そのままこっちに突っ込んできたら、と身が凍った。柱の陰にジャンプして転がり込めば助かるだろうか。まるで映画のシーンのような想像をしてしまった。 あり得ない? 確かに。その制御は、何重かにガードされたシステムによって行われているのだろうから。 こんな非日常的な想像を日常の風景の中で私はときおりしてしまう。 翻って、コーヒー豆の暴発。 なんか上手く動かないとか、水が出ないとか、調子が悪いとか。そういった日常生活の中の小さなトラブル。トラブルまで行かなくても、風呂の温度の設定とか(そうだ、思い出した。ずっと昔、五右衛門風呂のある家に住んだことがあった。当然風呂の湯加減は外の釜の火加減によっていた!)、鍋をかけたガスコンロの火加減とか、勘と経験によって運用されている日々の動作。そういうものが気がつけばどんどん日常の暮らしから失せている。パソコンがフリーズしたときにどうするか、というトラブル対応策は蓄積されている。でもそれは所詮はどのキーを押すか、ということで、身体化されるものではない。 防火扉の点検がされていなかったことが病院の火事の検証でわかった。点検を義務づける法律や仕組み、点検の資格制度を検討する、というニュースを昨日見た。完全にちがう方向に行っている、とため息が出た。(Yoh) #
by yoh-lab
| 2013-12-23 10:41
| 日常
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